既存事業と新規事業、つまり深化領域と探索領域の両立を目指す「両利きの経営」は、今や多くの企業において重要性を認識されています。ただし、実現できているかと言えば、それはまた別の話。新しい可能性の種を事業部に渡してビジネスを軌道に乗せていくフローにおいて、うまくいかなくなるケースが発生しやすいのです。
日東電工において研究から新規事業開発まで多彩な経験を積み、現在は三井化学で両利きの経営実現に向けて奔走されている常務執行役員 CTOの表 利彦氏。数々の経験から得た知識と知恵を生かし、組織や風土を変革しながら新規事業開発に挑む取り組みについて伺いました。
探索領域を育てるためにまず必要なのは「新製品」と「新事業」の定義の明確化
大橋:「BtoBマーケティングフォーラム 2024」でもお話しいただきましたが、新規事業開発はつくるだけではなく育てる、開拓のフェーズが重要になります。特に、深化の領域を中心とした企業経営が完成している大企業では、事業の種を見つけて芽を出せたとしても、育てる仕組みが整っていないことが多いと感じています。表さんは前職の日東電工で新事業の開発から開拓、拡大に至るまで多彩なご経験をされたそうですね。
表:私はもともと研究畑にいたのですが、自らの実力の無さを痛感したために、会社に頼んで、再度大学でサイエンスを学ばせてもらいました。経験で学んだ考え方を用いて、新たな材料、それを用いた新しい部材、そして新規部品事業までの立ち上げ経験をさせてもらいました。その後、再度コーポレートの研究部門に戻り全社技術部門を担当するCTOとしての経験を積ませてもらいました。その後、コーポレート部門の業務改革をCFOとタッグを組んでCIO経営統括本部長としてリードさせてもらいました。この中には、今で言うDX推進も含んでおり、色んな学びを得ることが出来ました。その後、渡米して再びスタートアップとの新事業開発をさせてもらいました。米国駐在中に日東電工の役員も退任となりましたが米国での継続勤務もさせてもらっていたのですが、縁あって、三井化学での第二の人生をおくる機会を頂き現在に至っています。

三井化学株式会社 常務執行役員 CTO 表 利彦氏
大橋:研究開発はフェーズによって考え方やアクションも大きく異なりますが、そのすべてを実際にご経験されてきたんですね。
表:経験からしか学べないことって、たくさんありますからね。ただ、多くの企業ではフェーズごとに担当する事業部や人が移り変わっていくので、私のように一気通貫ですべてを経験させてもらった人は多くないかもしれません。
大橋:そのご経験を踏まえた期待も大きかったと思いますが、三井化学での役割や取り組みについてもお聞かせください。
表:三井化学はもともと石炭化学から石油化学を主軸としていましたが、今後の事業成長と競争力強化を考えると、それ以外の新たな事業モデルを必要としていました。長期経営計画「VISION 2030」では、既存事業は形態を変えながら深化させつつ、顧客や社会の困りごとを解決していくソリューション提案まで含めて挑戦していくと掲げています。
しいて前職との違いを挙げるとすれば、前職では常に顧客と距離の近いところで仮説思考する習慣がありましたが、三井化学ではこのスタイルはそれほど実践されていなかった点でしょうか。裏を返せば、三井化学が今まで培ってきた強い材料技術にそうした思考習慣とアクションが取れるようにしていけば更に素晴らしいビジネス機会を得ることが出来るだろうと感じ、この3年の間活動をしてきました。
大橋:具体的な製品をつくるところまでで終わらず、その先はどんな使われ方をするのか、どんな課題に役立つのかというプロセスをつくること、そういった考え方を根づかせていくという働きかけですね。実際にご入社されてみて、会社の雰囲気や印象などはいかがですか。
表:最初に気づいたのは「新製品」と「新事業」の定義がごちゃ混ぜで議論されることが多く、この違いが明確化されていないことでした。そこをクリアにしようと説明すると、皆さんとても真摯に聞いてくださいました。そこで感じたのは、三井化学は気づいていないだけなので、気づけばすぐに理解して、すぐに動ける文化があるのだと実感しました。手前味噌ですが、レベルの高い方が多いんです。
大橋:では、最初からわりとスムーズに?

マーケットワン・ジャパン合同会社 執行役 ビジネス開発管掌 大橋 慶太
表:いや、まずは自分自身が学ぶ期間をいただきました。たとえば、コンビナート系の石油化学事業に関する知識が私にはなかったので、工場の設計や仕組み、それが組織とどんなふうにつながっているのかといったことが全然わかりませんでした。まずは自分が学んで「なるほど」と理解しなければ始まらないので、経営企画部をはじめ多くの方々からレクチャーしてもらいました。まずはインプットに時間をかけて、それから向かうべき方向を定め構想案を練り、関係者に繰り返し説明し続けながら組織構造を変え、愚直に実践していく……、というプロセスを踏んでいきました。
テーマを育ててプロジェクトへ 三井化学流事業開発のプロセス
大橋:先ほどおっしゃっていましたが、多くの企業では表さんのようにお一人で様々なフェーズのご経験を積まれる方は少ないですし、探索領域の事業を育てたいと思っていてもなかなかできない、というケースが多数あります。現在、三井化学で実践されている具体的な取り組みについても、ぜひお聞かせください。
表:まず、新規事業の種に当たる初期段階は「テーマ」と呼んでいます。この段階では、1テーマあたりにかかわるのは1〜2人程度です。四半期ごとに各テーマをトライアウトにかけてスコアリングし、進捗や展開の可能性を定量的に可視化します。新規事業開発センター(以下、NBIC)のほぼ全員で360度評価を行い、結果に応じてテーマをどんどん入れ替えていきます。見込みがあればさらに推進し、なければ一旦棚上げしたりストップしたりというようにふるいにかけて、入れ替えながら磨いていきます。
大橋:なるほど。テーマの実り具合を見ながら、次のフェーズに進めていくんですね。
表:定量評価を継続して一定のレベルに達すると、テーマは「プロジェクト」に転換します。新規事業の開発というと、意欲ある若手が頑張って推進するイメージがあったりもしますが、実際には、ボトムアップの頑張りだけでは絶対に乗り越えられない壁に突き当たります。そこからは先行投資を含めた経営のコミットが不可欠で、失敗させないためのガイドが必要になります。三井化学では、プロジェクトになった段階で移動が可能なほぼ全員が工場勤務をして頂くことにしています。
大橋:工場に引き渡すのではなく、かかわるメンバーの方が工場に行くんですか?
表:そうです。研究開発やNBICのメンバーが赴いて、工場や品証のメンバーと一緒に動きます。NBICのリーダーを中心に、仮想のヒエラルキー組織を作るイメージですね。もともと、三井化学では袖ケ浦の研究所で研究開発を行い、その後は工場の生産技術にバトンを渡し、プラントを作って製造するというフローがありました。ただ、既存事業とは異なる製品の場合はより深い作りこみが必要になるので、モノづくりの現場に移ってもらうという思想です。
大橋:一般的には、開発が具体化していくなかで徐々に別の部門へと引き継ぐケースもありますが、メンバーごと移っていくのは画期的ですね。モノづくりの現場で設計や製造を行った後は、セールスやマーケティングなどにも携わっていくのでしょうか。
表:もちろん、そこまで見据えて動いていきます。作り上げた製品を実際にお客様に届けるには、無秩序な状態ではいられません。品質やデリバリー、レギュレーションなども整えなければいけませんから。
そして、部署や役割の垣根を越えて一緒に仕事をしていく経験こそが、次の経営につながる重要な価値になると考えています。勿論、ここで会計、財務も学びます。そのため、プロジェクトになった段階で、かかわるメンバーには徹底的にROICの考え方を教えていきます。財務も会計も徹底的にリアルに。研究者も技術者も同様で、フォローしながら実際のビジネスに求められるあらゆる知識やアイディアを一つずつ全部、教えることで吸収していきます。
大橋:今までだったら後工程の誰かが考えていたことを、すべて当事者としてやりきらなければならないというわけですね。しかし、それこそがまさしく新しいビジネスを作るということに他なりません。
表:そう思います。ビジネスをつくる経験自体が経営を理解していくプロセスなんですよね。既存事業の枠組みの中では、多くの場合が機能分担された1パートを担うことになります。それは効率的ですが、なかなか全体の流れがわからない。ところが、新規事業を開発する場合はゼロからすべて構築しなければいけないので、実体験ができるわけです。「研究者だから技術だけやればいい」ではなく、技術を学び、営業担当からお客様との付き合い方を教えてもらい、ネットワークを構築していく。私の経験上、そういった過程を経ていくことで、企業経営を学ばせてもらったと思っています。
新規事業開発は企業を成長させるためのドライバー チャレンジはあってもギャンブルはしない
大橋:新規事業はその名の通り、既存事業に対して新しいものであることが求められます。一方で、当然ながら新しいものなら何でも良いわけではなく、企業としての価値観や経営戦略とフィットしていなければいけません。
表:「VISION2030」では、従来の石油化学をベースとしつつ、成長産業領域での事業展開を掲げています。具体的にはモビリティ、ICT、ライフ&ヘルスケアですが、既存事業のアセットを新規事業に投資することで、パートナーやお客様に対して従来以上の価値提供ができるようにしていくのが、根底に流れている思想です。
大橋:どんなに成長可能性が見込めたとしても、ビジョンが描く姿と相反していたり、新しいだけでリスクが大きいギャンブルだったりする判断はできないですしね。
表:まさしく、チャレンジはしてもギャンブルはしません。防げるリスクはヘッジして、それでも残る最小限のリスクにチャレンジしていくという考え方です。
大橋:塩梅って難しいですよね。ギャンブルしないのはもちろんですが、一歩間違えるとチャレンジもしない状態を招きかねません。
表:チャレンジするかどうかの基準は、突き詰めると「その新事業は三井化学として挑戦する意味があるか?」という問いに尽きます。新規事業開発は、将来的に会社を持続成長させるためのドライバーを探索するのが目的なので、既存のアセット以外の柱をも打ち立てなければいけません。ただし、何らかの三井化学の持てる強い資産が全く使えない領域の成功確率は非常に低いと感じます。よって、やはり三井化学がやる事の何らかの意味を問い続けることは重要だと思います
だからこそ、成長可能性の規模感やROICなどをつぶさに探りながら、そもそも三井化学のお客様への価値提供ができる事業でなければ意味がないと思っています。「継続的に価値提供できるか?」「市場のお客様への行動変容を起こせるか?」という観点で考えなければいけないし、「あったらいいね」じゃなくて「なくてはならない」になれるかどうかが重要です。
大橋:確かに、新製品ではなく新規事業ですからね。そうやすやすと撤退させるわけにいきません。それだけの精度を求めようとすると、必然的にリソースやコストが不可欠になると思います。
表:なので、先行投資が大切なんです。そこは経営の担う部分であって、可能性を育ててきた現場がボトムアップだけで負うべきとは思いません。新規事業開発はトップとボトムの両方が真剣に向き合って意見を交わし、バランスを取りながら連携することが成功のカギになると考えています。
事業部を説得するために、手足を使ってどこまでも泥臭く顧客の声に耳を傾ける
大橋:研究開発は「良いものがつくれたから売ってくれ」と言い、事業部は「良いものだからといって売れるとは限らない」となってしまうのは、よく耳にするボトルネックです。開発側は事業部に渡したその先の可能性まで見据えるし、経営はそれを失敗させないようコミットするという表さんのお話から、R&Dからビジネスまでをいかにシームレスにつないでいくかが重要なのだと理解できました。その推進役としての表さんや、NBICという組織体が要になるんですね。
表:そうですね。新規事業開発において、NBICは最低でも損益ゼロの状態までコミットします。プロジェクトを進めていくうえで「これはあの事業部に渡せるだろう」と見えてくる程度まで解像度を上げる。そこまでたどりつければ、逆に事業部側から「ぜひ一緒に動いていきたい」と言われるようになれると思います。実際にそういうプロジェクトが出始めていますから。
大橋:表さんの今までの「社長補佐」という肩書も効いているんじゃないでしょうか?
表:そうかもしれませんね。よそからやってきた自分にとっては、動きやすいポジションを作っていただいたと思います。三井化学は言わずと知れた財閥企業。長い歴史で築かれてきた伝統や組織風土に対し、当初は「変革を起こすのは難しいかもしれないと感じていました。ところが、実際は誰もが素直でフラットで、役員同士の壁やヒエラルキーがほとんどありません。急に現れた私が変わったことばかり言い出しても「一度、やってみようか」と信じてやらせて頂いています。その様ないろんなことに真剣に耳を傾けてくれる真摯なまっすぐさが、三井化学の文化なんだろうと実感しています。
大橋:加えて、やっぱり事業部側がちゃんと可能性を感じられるだけのデータなり成果なりを見せる、というのも大事ですよね。
表:まさしくそうです。新規事業開発として攻めるマーケットの情報を精緻に調べ上げて理解したうえで渡さないと、今日のお客様への価値提供に責任をもって活動している事業部は、不確実性が高すぎるテーマに付き合っている余裕はありません。よって、あまりにも初期段階で事業部に託すのでは不完全なんです。将来の新しいトレンドや市場なんて誰にも正確にはわからない。だとすると、新規事業を開発して開拓する部分までコミットする立場のNBICとしては、三井化学として新しい価値提供を提案していける市場はどこで、どの程度の規模感で、そこにはどんなお客様がいて、どんな課題を抱えているか、そしてその課題をどう解決できるのか、が語れないと、説得力がないでしょう?
大橋:その域に達しようとすると、データ収集や調査だけでは足りませんよね。やはり、現場に足を運んでリアルな情報も拾い上げていく必要性があると思います。
表:そう、結局やっていることは泥くさいんですよ。愚直に同じことを言い続ける、手と足を使って行動する。市場を知るなら、いろんなお客様の声に耳を傾ける以上のマーケティングはありません。その点で言うと、NBICはメンバーを外に引っ張り出す役目も担っていますね。とにかく仮説を立てたらすぐに現場に行く、現場を知るという姿勢を徹底してほしいと思っています。
一方で、企業は非営利団体ではないので、必ず次世代への投資に見合うキャッシュを戻さないといけません。NBICは未だコストセンターですが、いずれ必ずプロフィットセンターにする事をコミットしています。
大橋:失敗させないという経営陣のコミットであったり、ビジネスとして成功確度を上げるところまで見据えた事業開発であったり、新規事業開発の難しさを感じている企業にとって非常に有用なヒントを多数いただけたと思います。最後に、表さんが今後さらに挑戦していきたいことや注力されたいことを教えてください。
表:自分自身を振り返って実感していることですが、経験が知識をもたらし、知識が知恵を生み出すと考えています。その経験するチャンスを、出来るだけ早く若い人たちにあげたいんですよ。私にとって会社は自己実現をする場所で、その環境を与えてもらった限りは、その期待値に応えるためにもやると決めたら必ず成果を出すというのがモチベーションになっています。大きな失敗もしましたが、そうやって突き進んできた40年の経験を、若い人たちには20年で経験してもらえるように支援できたらと思っています。
大橋:失敗しても周りがサポートする体制を作りつつ、ですね。
表:はい。そして早い段階から一つ二つ上の役職に就かせ、そこでしか得られない経験を積んでもらいたいな、と。そこから次世代の企業経営につながっていきますし、さらに言えば、350年の歴史を誇る会社を未来にバトンタッチさせていく一端を、私たちは担っているのだと思っています。次に渡すときに、少しでも価値を高めておきたいじゃないですか。新規事業開発も、さまざまな資源を組み合わせていけばもっと効率的に行えるはずなので、早くやる、早く教えることを推進していきたいです。
大橋:既存事業が確立している大企業において、新規事業開発をうまくいかせるためのヒントをたくさん教えていただきました。本日はありがとうございました。
対談のまとめ
両利きの経営の著者でもあるチャールズ・A・オライリー氏によると、イノベーションを実現するには、①着想(新規事業のアイデアを出す)②育成(検証を通して学ぶ)③量産化(新規事業のための資産を集める)という3つの段階があるとされています。多くの企業において、①をR&Dや新規事業開発が行い、③の段階になって既存の事業部がその事業を引き取ることが多いのではないでしょうか。言い換えると②にあたる、ビジネスを育成・開拓することをミッションとする組織が存在しないということにもなります。
表氏および三井化学社の取り組みは、①を行うチームが、経営サポートのもと継続して②まで担当するという形です。責任やミッションがあいまいになりがちな②の段階。一般に“死の谷”とも呼ばれる部分ですが、この事業開発と事業化の間の壁を超えることを目標とした挑戦です。
本対談において表氏が、「最初に気づいたのは「新製品」と「新事業」の定義が明確化されていないことでした」と述べられていたことが、上述の育成機能の必要性に関する認識の重要性を組織が認識することの重要性を示唆されているように感じました。イノベーションにおける②の育成の機能と組織を如何に装着するかが、探索の領域の事業化の成功確率を上げるためには欠かせない機能だと本対談を通して改めて認識を深めました。
プロフィール
表 利彦
三井化学株式会社
執行役員 CTO 新規事業開発センター 加工生産技術センター及びCTO室担当研究開発本部管掌
1983年に日東電気工業株式会社(現日東電工)に入社。26年間、研究者、研究開発部長、事業部長を務めてきた。 その後、2009年から2015年にかけてCTOとして日東技術に深く関わった任務を遂行。2015年から2018年の3年間はCIO 経営インフラ統括本部長としてIT、調達、物流領域での構造改革を推進。2018年5月以降は米国サンノゼに駐在し、日東電工のCTOやCIOの経験を活かし、Executive Fellowとして社内外の強力な技術を融合させ、新たなビジネスチャンスの探索と創造を行ってきた。 2022年2月より三井化学株式会社に入社。社長補佐、新事業開発センター担当として、三井化学の新事業創出をメンバーと共に推進している。専門は高機能性高分子、光機能性高分子の分子設計、合成、物性評価。 特に、アルカリ現像タイプの耐熱感光性樹脂を新たに開発し、それを使用したHDD用サスペンションブランクを商品化。千葉大学自然科学研究科修了。Ph.D.。
大橋 慶太
マーケットワン・ジャパン合同会社 執行役 ビジネス開発管掌
BtoB企業のマーケティング・コンサルティングに15年以上従事。大手製造業向けに、マーケティングを軸にした新規事業探索、デジタルトランスフォーメーション等の戦略立案と実行支援のアドバイザリ役を務める一方、日本におけるマーケットワンの事業開発を管掌する。日本アドバタイザーズ協会 デジタルマーケティング研究機構BtoBマーケティング委員会の委員長