老舗企業がDX推進に舵を切る。昨今の社会的潮流からすれば、よくある話だと思われるかもしれません。同時に、掲げた理想の実現がいかに難しく、厳しい道であるかということも想像にかたくないでしょう。重要度も優先度も高いのは明白なのに、なぜか進みきらない企業のDX推進。表層のツール導入やデータ活用だけではたどり着けない本質を突くために、さまざまな企業が手探りで取り組んでいます。
2023年1月、創立100年を超える老舗製薬企業・小林製薬株式会社に、社長直下のCDOユニット長として入社した石戸 亮氏。いくつものBtoB企業や大手外資企業で営業やマーケティングの責任者を務めた石戸氏が、老舗のBtoC企業のCDOという“畑違い”のポジションに就いたことは、大きな驚きとともに注目されています。歴史ある企業におけるDX推進の心得や実際の進め方と工夫、変革すべきポイントなどをお話しいただきました。
目次
日本を代表する老舗企業に、異色のキャリアを持つ若手CDOが誕生したワケ
大橋:石戸さんがCDO(Chief Digital Officer)として小林製薬に入社されたと耳にして、実は私はびっくりしたんです。これまでのキャリアと比べるとすごく意外で……。どういった役割を期待されてのご入社だったんでしょうか?
石戸:役職通りいわゆるDX推進がミッションではあるのですが、私自身は普段あまりDXという言葉は使っていないんです。これまでの経験も、一見するとDX推進と直結しなさそうなことばかりかもしれません。
大橋:そもそもご入社の前に、デジタル戦略アドバイザーとして参画されていたそうですね。
石戸:そうなんです。最初のうちは「自分でいいのか?果たして小林製薬に何が貢献できるんだろうか?」と疑問も感じていました。ただ、小林製薬という会社を深く知るにつれ、デジタルのHow toがなくて困っているものの、想いやアイデアは十分にあるのだと気づき始めたんです。同時に、入り口はDXとはいえ「本質的な経営課題はどの企業でも相通ずるものだ」と気づいたことで、自分の持つバリューを発揮するための解像度も上がっていきました。
大橋:どんな企業でも、行き着く先はいわゆる変革への本気度を上げること。モチベーションの維持やビジョンのベクトル合わせなど、結局は普遍的な課題なのかもしれません。それに、パイオニア株式会社という他の大企業でもCDOを務めるなど、多様な企業での経験をお持ちなのが特徴的です。
石戸:まさしく、当社の社長からも「歴史のある事業会社も経験している石戸さんだから声を掛けた」と言われました。アドバイザーの頃から、ただ意見を出すだけではなく、具体的な組織体制や人材採用の提案をしていたので、受け入れる側も一緒に働くイメージを持ちやすかったのかもしれませんね。
内在する強みを、DXという手段で新規ビジネスに結びつける
大橋:実際に入社されてみて、イメージのギャップはありましたか?
石戸:あまりなかったんですが、「こんなに良いアセットがあるのに、生かしきれていない」という歯痒さは感じるようになりました。たとえば、当社では毎年全社員から50,000件以上もの新製品と業務改善のアイデアが出されるんです。しかもそれが40年間も続いている。社員にしてみれば、アイデアは出して当たり前、普通のことなんですが、外から見ればとんでもなくすごいことですよね。そこには、会社や製品への愛の強さも見てとれます。
また、小林製薬では ブランドを展開しており、それは顧客とのタッチポイントが150個あるのと同義です。この強みをデジタルビジネスにしっかり紐づけられれば、事業成長の大きな可能性になると考えています。
大橋:BtoBビジネスではアップセルやクロスセルと言いますが、それだけのタッチポイントがあれば、顧客に伝えるためのストーリーを構築しやすそうですね。
石戸:ただ、我々のような日用消費財業界では、それがなかなか難しいこともわかってきました。TVCMで認知を獲得し、店頭で商品を売るというビジネスモデルが確立されているので、どうしてもブランド単体、製品単体での展開がほとんどです。
大橋:裏を返せば、だからこそDXを推進する意義も価値も大きい、ということかなと。
石戸:おっしゃる通りです。当社では今後、デジタルサービスを軸とした新規事業開発を推進していくと対外発表していますが、フェムテックなどデジタルを基軸とした新しい分野に、いかにして既存ブランドの展開をうまく結びつけていくかが重要なカギとなります。
たとえば、当社にはデリケートゾーンをケアする『フェミニーナ 』や、おりものシートの『サラサーティ』、女性保健薬の『命の母』など、女性を対象としたフェムケアブランドが多数あります。製品としては1つ1つ複数ありますが、製品を使用するお客様はユーザーとして1人です。デジタルサービスにおいてユーザー起点は大切であり、ニッチ製品の多品目・多品種な構成の当社はデジタルとの相性や可能性を秘めています。目に見えない部分も含め、全体最適でのDXを実現するための議論を進めています。
100人の社員と1 on 1 「共感と納得感」を重視し手触り感のある変革を
大橋:先ほど「DXらしからぬ進め方」とおっしゃっていましたが、具体的にはどんなことをされているんですか?
石戸:2023年8月に行ったDX方針説明会では、2021年に策定された「あったらいいな開発のDX」「全社員でDX」「生産性向上」の3つの戦略をより具体化するとともに、DXの絵姿や2030年に向けたロードマップを発表しました。対外発表ではありますが、社員に向けたメッセージも込めています。社員の腹落ち感なくしてDXは進まない。そんな想いが根底にはありました。
小林製薬では、経営陣の危機意識のもと、私が来る以前からDXを推進していました。ただ、明確なビジョンや全体方針に欠けたまま走り出していたので動きがバラバラになり、現場では疲弊感が生まれていたのも事実です。誰しもDXの必要性は理解しているし、何なら「こうした方がいいのに…… 」というアイデアもあった。そこで、既に社員が持っているはずの想いとアイデアを動かすために、DX方針説明会を通して小林製薬のDXへの向き合い方を公式発表した、というわけです。
大橋:きれいに整えられた言葉を並べるのではなく、共感を生みながら後押しする姿勢を示した、と。
石戸:共感と納得感は、簡単ではないですが、とても大切にしていたポイントですね。入社後数カ月で約100人以上の社員と1on1で話す場を設けましたし、国内外の部長クラス約80名を集めたプレゼンテーションも実施しました。リアルタイムで質疑応答し、できる限り現場の声を拾い集めるように心がけました。対話を通した共感や納得感を得るために、時間と労力は惜しみませんでした。方針発表は通過点に過ぎず、成果を出すために、引き続き対話や改善、実行をしていきます。
大橋:確かに、ともするとDXのイメージとはかけ離れた取り組みのようにも見えます。
石戸:でも、「結局はDXって本社よがり、経営よがりだよね」「現場の実態を考えていないよね」と感じさせないためには不可欠だったと思っています。私自身も、工場や営業の商談会に出向いたり、経年の経営資料を読み込んだり、現場を知るための行動を重ねていきました。遠回りに見えるかもしれませんが、思考と感情をシンクロさせた先の共感を育むことが、小林製薬のDX推進の第一歩だからです。しかも実は、いくつかのシステム関連プロジェクトは、私からストップをお願いしていたりもします。
大橋:進んでいるプロジェクトを、あえて止めたんですか?
石戸:そうなんです。「え? 石戸さんってDXを進める人なんじゃないの?」と拍子抜けされましたよ。だけど、「とりあえずAIを使ってみよう」「とりあえず新しいツールを集めよう」といった ツールや手段だけで、目指すDXが実現できるはずもありませんよね。新しいことを始めることを否定しているのではなく、本当の論点は、その下に潜む組織構造や習慣やルール、社員の意識であり、表層に見えている課題よりもはるかに複雑で解きづらいです。それらを根底から見つめ、変革していくのが本来あるべきDXであり、私は根気強く「デジタルの手法やツール・システム導入の前に、やるべきことがあるはずです」と、伝え続けているんです。
大橋:一般的によくお聞きするのが、営業にDXが必要だからといって、やり方は何も変えずにSFAツールだけ導入する、といった例です。旧来の方法や意識が変わらないのに、どれだけデータを集めても効果的に活用ができるわけがありません。何なら、ちぐはぐな状態を加速させてしまいかねない。
石戸:まさしくその通りで、新しいツールの前に、まずはビジネスや組織全体を見直しましょう、そもそもの業務フローや考え方を見直す必要があるのではないか、AS IS-TO BEを言語化・ドキュメント化しましょう、ツールを使う人たちの意識とリテラシーを高めましょう、というステップが必要なんですよね。でないとDXと意気込んで導入したシステムやツールで、無意識のうちに生産性を下げたり、競争力を落としたりしている可能性があります。
大橋:そういったアプローチも、小林製薬という会社に適した手法だと考えて選択されたんでしょうか?
石戸:小林製薬には小林製薬にフィットしたDX推進があるので、特に時間軸や進め方には配慮しています。多少強引でもスピードを求めるやり方が合っているとは思わないし、経営状況から鑑みてそうする必要もありません。社風や社員のモチベーションに寄り添う進め方を大切にしています。
新たなフィールドで戦うために、慣れ親しんだ習慣や文化を変えていく
大橋:共感や納得感を育みながらのDX推進を掲げつつ、実際に社内の現状や状況を理解した結果として、これからDXの先に変革させたいことって見えてきましたか?
石戸:ここが変わればもっとよくなるだろうと感じているのが「捉え方」ですね。たとえば、当社の各ブランドが新規デジタルサービスをつくるとして、ブランドごとに別々のID登録が必要になるとします。大橋さんがお客様だったら、どう感じますか?
大橋:率直に言って、わずらわしいですね……。
石戸:本当にその通りです。先ほども少し話に出ていましたが、小林製薬のお客様だと捉えれば、情報は一元的にまとめた方が会社にとってもお客様にとっても良いはずです。当社の会長とも話した際に「アプリが乱立したり別々のID登録が増えていったらお客様が困るだろう」と言っており、つまりはこれってDXの発想でも何でもないわけですね。
ところが、社員からはその声が出てこなかった。自分の担当ブランドの価値を上げ、担当製品の売り上げを伸ばすというミッションだけを実現するには何も間違ってないのですが、「何となく不便かも……」と思いながらも、捉え方や行動を変えてみようという発想や行動にはなっていなかったようです。
大橋:なるほど。視座を上げる、あるいは見る角度を変えてみるという意味で、捉え方の変革が必要なんですね。確かに、小林製薬さんの製品って店頭販売が基本ですが、デジタルサービスを展開するとなると、販売手法もマーケティングもがらりと別物になります。
石戸:そうなんです。店頭販売には長年の実績や経験に裏打ちされた勝ち筋があって、それはそれでとても価値ある大切なものなんですけど、DXによってまったく新しい事業、新しいサービス、新しいターゲット層、新しい売り方・提供方法を考えるならどうするか。捉え方を変えなければ、顧客像が見えづらくなり、当然勝ち筋を見出せなくなります。もちろん、従来のやり方にも転用できるヒントは大いにあるんですけどね。
大橋:生かせる強みを持っているのに、それに気づくのは難しい、と。
石戸:たとえば、小林製薬は日本や関西を代表する野球チームだとします。そこに、県や市代表レベルのサッカー選手である私がやってきた。「野球で培った身体能力や経験値を活かしながら、サッカーのような別の球技も融合しながら挑戦しましょう」と言っても、「私たちはずっと野球をやってきたので、まずはバットでの素振りや、ボールを手でキャッチする」。何十年も慣れ親しんだ習慣や文化が、新しいことへチャレンジする際には良くも悪くも染み付いていて、それが強い野球チームを作ってきた実績だと思いますが、無意識のうちに“今までのやり方”に陥りがちな実情。それを変えるというのが、まさしく今、私が感じている課題です。
大橋:特に、新規事業の開発や推進となると、当たり前が当たり前じゃないフィールドで戦っていくわけですから、意識も行動も転換しないと成功できるはずもなく。
石戸:最初に申し上げた通り、アイデアがどんどん出てくるというのは小林製薬の素晴らしい強みなんですが、新規事業にもその発想を当てはめて考えると、絶対につまずきますよね。毎年30個の新製品を出すのと同じような勢いで、これまでやったことのない新規事業を進めようとするのはなかなか無理がある、と理解してもらうところから始める必要がありました。従来の新製品のように製造、研究、営業、販売チャネルなどがまだ整っていないですし、必要とされるスキルも異なることもあります。
大橋:新規事業を一つ軌道に乗せるだけでもすさまじく大変なのに、既存事業と同じ感覚で複数の新規事業を走らせ、全部うまくいくだろうという根拠のない自信を持ってしまう企業もありますね。
石戸:新たな挑戦に対し、従来の前提や成功ベースで押し切ろうとすると目詰まりが起きやすいので、他にも捉え方や着眼点はあるんじゃないか?と意識をときほぐしていくような、行間の会話を大切にしています。
大橋:企業文化とも深く結びつく部分ですし。
石戸:とはいえ、本格的にDXを推進していくのにもちろん私一人でできることにも限界がありますから、カルチャーフィットや変革のスピード感を見極めながら、社内のトレーニングや少しずつ外部からの仲間も増やしていきたいとも思っています。
革新の可能性は、BtoB的発想を、「BtoBtoC」にクロスオーバーさせるところから
大橋:“外部からの仲間を増やす”となると、DXや新規事業のエキスパート、それにBtoBマーケターもその知見を活かせるんじゃないですか?
石戸:そう思います。マーケティングにせよセールスにせよ、BtoBはお客様と直接つながり、リアルな声を戦略やプロダクトに落とし込める強みがありますよね。当社に限らず日用消費財の業界では、BtoBでは当たり前のCRMやアカウントマネジメントなどに十分に取り組めている企業が多くはないと感じます。
我々の製品は小売店を通して一般消費者のお客様に届けられるので、正確に言うと「BtoBtoC」のビジネス。したがって、BtoBの知見や手法もBtoBtoCに活用させられたら、かなり大きく変革が進むと見込んでいます。ビジネスの境界線や部署の垣根などにとらわれず、有機的に枠を飛び越えていく下地づくりを、DXとともに進めているところです。
大橋:製品ではなくサービスを売る、ストーリーを語るといったBtoB的な提案も、新しい可能性を拓くかもしれません。
石戸:たとえば、『ナイトミン 鼻呼吸テープ』は、睡眠中の口呼吸を予防することで、いびきの音を軽減し安眠へ促す製品です。でも、これを良質な睡眠という“体験”を売っていると考えると、そこに睡眠中のデータを活用するスリープテックの発想が広がりますし、おのずとDXにストーリーがつながるだろう……、などと考えたりするんですよね、サービスビジネス的発想では。
大橋:最初に、畑違いのキャリアでびっくりしたと申し上げましたが、石戸さんご自身が異分野に飛び込むファーストペンギンでありながら、組織全体の意識や行動を変えていく後押しをする立場でもあるのだな、と、お話を伺っていて感じました。先導しているようで、一歩後ろから押してもいるようで。
石戸:イメージとしては、チアリーダーのような存在になれるよう意識しています。最初は率先垂範してたり、自ら一緒に実践をしつつも、気がついたらこれまでと捉え方が変わったり、新しいスキルがついたり、更に自立した組織なり個人なりを応援する人になっている。5年後くらいにそうなっているのが理想的ですね。
大橋:貴重なお話をお聞きできました。本日はありがとうございました。
対談まとめ
同床異夢 — ビジョンの方向性は共有しているはずなのに、将来目指す先の姿がそれぞれの立場や理解によってずれてきてしまうという話はよくお聞きします。
経済産業省は DX(デジタルトランスフォーメーション)を「企業が(略)、顧客や社会のニーズを基に、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや、組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立すること」と定義しています。DXを「トランスフォーメーション=変革」として実現させていくためには、時には「デジタル化」にブレーキを掛けることもいとわないという石戸氏のお話には、成功するDXに通底する意思、覚悟を感じました。
慣れ親しんだ習慣、文化を変えていくことは個人、組織にとっても簡単ではありません。徹底とした対話と、納得をつくる努力を最大化すること、より多くの社員が自分ごととして参加できる土壌づくりをおこなうこと。石戸氏のアプローチは、多くの伝統企業の変革には不可欠なものではないかと、対談を通して改めて感じることができました。
プロフィール
石戸 亮
小林製薬株式会社 執行役員 CDOユニット ユニット長
サイバーエージェント入社、子会社2社の取締役を務め、Google Japanにおいて大手広告主のデジタルマーケティングを支援。 イスラエル発のAIスタートアップ企業のデートラマでは日本市場参入を推進。セールスフォース・ドットコムによるデートラマ買収時には、日本市場におけるPMIをリード。2020年4月からパイオニアの全社CDOやカンパニーCMOとして非上場後の再成長期に従事。小林製薬では2021年よりデジタル戦略アドバイザーを務め、2023年より同社へ入社し、CDOとして全社のDX推進を牽引している。ノバセルの事業戦略アドバイザーも兼任。
大橋 慶太
マーケットワン・ジャパン合同会社 執行役 ビジネス開発管掌
BtoB企業のマーケティング・コンサルティングに15年以上従事。大手製造業向けに、マーケティングを軸にした新規事業探索、デジタルトランスフォーメーション等の戦略立案と実行支援のアドバイザリ役を務める一方、日本におけるマーケットワンの事業開発を管掌する。日本アドバタイザーズ協会 デジタルマーケティング研究機構BtoBマーケティング委員会の委員長